フマユーンは初代皇帝のバーブルの長男でした。母マハムはバーブルに愛された皇妃でした。
1530年にフマーユーンが病に倒れたとき、父の皇帝バーブルはどうしたらよいかとお気に入りの相談役に相談すると、フマーユーンが助かるためには自分が持っている物の中で最も価値の高いものを捨てなければならないとアドバイスされました。
皇帝は自分こそが最も価値の高いものであるとして自ら息子の犠牲になろうと述べて祈りを唱え、フマーユーンの寝床の周りを3回歩いた。するとフマーユーンは病から回復し、バーブルが病に倒れて死去しました。このため、2代皇帝として跡を継ぎました。
その大切な息子フマーユーン(47歳没)がのちに眠るのがここです。
ムガル帝国第2代皇帝フマーユーン <1508年~1556年>は、1540年(アフガン人)の将軍シェール・ハンに大敗して、インド北部の君主の座を奪われペルシアに亡命し、暮らしました。
後にペルシアの支援を受け、1555年アーグラとデリーを奪回して北インドの再征服に成功しました。しかし、翌1556年に事故死してしまいました。
フマーユーン死後の1565年、ペルシア出身の王妃で信仰厚いハージ・ベグムは、亡き夫のためにデリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建設することを命令しました。これがフマーユーン廟です。
伝えられるところによれば、ペルシア出身の建築家サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンとその父ミラーク・ギヤートゥッディーンの2人の建築家によって9年の歳月を経て完成されたそうです。
そんな声が聞こえてくるような気がする、廟の中です。
父が死去したとき、フマーユーンは極めて不安定な地位にありました。フマーユーンよりインド南西の地を任されていた弟のカームラーンが自立して皇位を狙い、またその下の弟であるヒンダール、アスカリーらもフマーユーンに対して表面上は忠誠を誓いながらも皇位を狙っていたからです。
フマーユーンには戦才があり、チャンパニールの城砦を攻めたときなどは自ら城壁を梯子で登るほど勇敢だったとか。でも、手に入れた新領土の支配体制の確立を怠って自らの快楽に溺れたため、アフガン勢力が力を回復して侵攻してくると、南からも反勢力が一斉に蜂起するという事態を招きました。
フマーユーンは弟のヒンダールと共に兵を集めようとした。弟はフマーユーンと、好きだったハミーダが結婚してしまったので、それを恨んであまり協力はしませんでした。
インドの王様の話には、大好きなお妃と大切な息子の話がよく出てきます。
どんなに自由に女性を手に入れることができても、お気に入りは1人、というのは人の不思議ですね。
戦いが上手くても、自分の遊びを優先すると治世はできない。
戦いが上手くなければ、王にさえなれない。
兄弟も敵…。すごい時代だったのですね。。。
(つづく)